するとコウが、全く予想外の事を言った。
「婦長さん。今日も、僕のことを『コウ』って呼んでくれたんですね」
コウの言葉に、私は戸惑った。
心の中で話しかける時は、確かにそう呼んでいる。その癖が、うっかりと出てしまったのだ。だけど今までに、『コウ』と呼んだ事などあっただろうか?
「この前、僕がおっぱいにイタズラした時にも『コウ』って呼んでくれたでしょう。あの時、なんだか嬉しくて、背中がぞくぞくってしちゃったんです。だから、もう一度だけでもいいから、婦長さんにそう呼ばれたいって思ってたんです…」
コウははにかみながら、私の疑問に答えてくれた。
「そう、だったかしら…。何か、あの時は頭の中がぐちゃぐちゃだったから…。じゃあ、これからはずっと『コウ』って呼んでいいのね。でもコウも、これからは『婦長さん』はやめて欲しい。明日退院したら、私はもうコウの『婦長さん』じゃなくなるんだから」
私は祈るような気持ちで言った。
お願いだから、今の言葉に込めた、私の気持ちを察して。決して自分からは言うことのできない、切ないくらいの私の思いを…。
コウは、ほんの一瞬だけ考えて、答えた。
「じゃあ、これからはずっと、『さゆりさん』って呼んでもいいですか?婦長さんのことを名前で呼ぶなんて、失礼かも知れないけど…」
心が震えた。
私の祈りがコウに通じたのだ。
コウの言葉を聞いて、私はもう自分を抑えることはやめた。
コウの前では、素直になろう。
心の堰を切ったとたん、今まで堪えていた涙が溢れ出した。十年間流すことのなかった、心地良い涙。
コウは何も言わず、私の背を優しく撫でてくれる。心の底に堆積していた苦しみが、涙に溶けて流れ出していく。胸の奥の痛みが、コウの掌に吸い取られていく。
私の身体の震えがおさまると、コウは涙に濡れた顔をそっと上に向かせ、大好きな笑顔で言った。
「さゆりさん、涙はもうそのくらいで…。次の嬉しい時に取っておかないと…」
私は、手で涙を拭って頷いた。
「…だよね。ねえ、コウがまた、私を泣かせてくれるの?」
「はい、きっと」
コウがはっきりと頷いてくれた。
「ありがとう、コウ。でも、優しいフリして、実はお腹が空いてるんでしょ?」
「正解!だって、なかなか泣き止まないんだもん」
無人の待合室に、二人の笑い声が響いた。