孤独は味わえる。それが世界に通じる道だからである。孤独を知らない若い世代は、まだ塀に囲まれた世界だ。檻から抜け出せず迷っている。迷いから脱したとき、逃亡者としての人間が存在する。
自由は老人だ。何も考え無くて良い。老人の考えでは、自由と名の付くルパンに乗って、盗賊でも世界を旅したいと思っているに違いない。人間の出来損ないを拝むより、信心からやり直せる。具体的に人間は哀れになり、世界から取り残される記憶は、老後になって何を覚えているかだ。
自分の信用となるもので、残してきた家族や親戚、仕事の仲間、友人に友達など沢山ある。しかし、それにしたって孤独には叶うまい。孤独は世界に通じる道だからである。人間の世界で何を血迷う事が在ろう。事は重大で信用に拘わる。
暖簾に筆押しとは良く言ったが、信用とはそうゆうものだ。信用が有るか、無いかでは人間に開きが出来る。つまり、商売は信用であり、信用を知らない人間の来る世界ではない。しかし、それにしたって限りが出来る。開きと限りで人間の限界は臨界点に達し、まだ到達し得ない人間の境地を茶で濁す。
利休のお茶は曇がよい。晴れてると甘く、美味しくない。庶民の知恵が無くなる。つまり、豪雨と思わせる秀吉の刀によって利休の首は飛んだ。その怨みは無いのか。人間の首が飛ぶとは祟りより恐ろしい。祟りはどのようにもたらされるのか。利休の首、同様に茶で濁すと祟りかも知れない。
しかし、それは世界にしてみれば祟りでも何でもなく、人間の世界観が祟りに向かわした。人間の世界観、つまり戦争の境地を語ったから首を跳ねたのだ。戦争の境地など、まだ誰も知らない。暖簾に首でもぶら下げれば、祟りだけ店の物だが、見せ物とは至らなかった。人間の限界に限りができ、人間の臨終に利休の首を思いやる。つまり、それは戦争で拵えた強者の境地だ。強者だけが世界を渡って行ける。