退職の日。
黒い帯の入った婦長のナースキャップを戴いた涼子が、深々と頭を下げる。
「吉村婦長。本当にありがとうございました。あたし婦長の教えを、絶対に忘れません。生涯、ナースとして生きていきます。吉村婦長のように…」
この二週間、私がどれほど厳しく叱っても、怒鳴りつけても、決して涙を見せなかった。
人一倍涙もろい涼子には、考えられないことだった。
そして今、涼子の頬を一筋の涙が伝う。
恐らく彼女は、この二週間で、私の全ての思いを理解してくれたのだろう。
「ありがとう、涼子。わたし…」
涼子が私の言葉を遮る。
「わかってます。だから、何も言わないで下さい。言葉にすると、軽くなっちゃいますから。
吉村婦長…。いえ、吉村さゆりって、すごく『いいおんな』ですよ」
スタッフ達に見送られて、私は病院の玄関を出た。
堪えようとしても、すぐに溢れ出してしまう涙を、花束で隠しながら。
涙で滲んで、前がよく見えなかった私は、誰かにぶつかりそうになった。
「すみません…」
私は謝りながら、相手を見上げた。
コウだった。
花束を潰さないように注意して、優しく私の背中に腕を回した。
「長い間、お疲れ様でした。吉村婦長。
今日からは吉村さゆりに戻って、自分だけのために生きて下さい」
コウの唇が、額に触れた。
後ろで、スタッフ達の歓声が沸き上がる。
このサプライズの犯人は、涼子しかいない。
私は振り返った。
スタッフ達の真ん中で、顔中を涙でくしゃくしゃにした涼子が頷く。
ありがとう、涼子…。
あなたが後輩で、本当に良かった。
私はコウに向き直り、背伸びをして唇を奪った。
コウがしっかりと抱き留めてくれる。
スタッフ達の歓声が、一際大きくなり、拍手が玄関ホールに響き渡った。