自堕落な世界観は、天才に於いて貴重な一ページだ。青春の匂いのする校舎で、若さを競った若者は皆、自堕落である。自らの知恵で滅び、自らのたぎりで天才の袂を分かち合う。天才とはお経だが、人間にあるのは詰まらぬ理屈だ。理屈から生まれ、帝釈天の産湯に浸かり、人間の粗相を神の躾にする。人間の粗相だから人間のアラだが、エゴは欲望を喰い繋いでいる。
エゴを強調する余り、人間の風紀は諸ともに崩れ果て、人間の良からぬ生業に罠を仕掛け、人間のエゴに知恵を与える。人間のエゴだから人間の孤児だが、孤児が恵まれたのは人間が在ってからだ。人間の存在も疑われ、何が道理かも解らぬ大人に混じり、人間とは生きて行く過程で生まれ育ち、人間の愛育に期待するものは人間の境地である。何も政治に期待してない。人間に期待するのは境地であり、違った心境だ。
人間の古来と話し掛けて人間の道理とするも、人間の行いは仏法に叶ったものだ。不良などとんでもない。そこで人間は大人に見習い、人間の期待した仕事を覚えて行く。人間の期待だから大きい方がよい。人間の期待が小さいと自惚れている。人間の期待だから理とした。つまり、動物見習いである。学校は動物だ。まだ人間の扱いに馴れていない。人間の教育に期待した大人は、まず本能を認め、人間の欲望に相槌を入れるべきだ。
人間の本能だから相槌が良い。他は余計なのだ。本能を飼い慣らすにしても神の躾では、人間はいつ、如何なるときも疎かにしてはならない。人間の欲望は理を悟った。動物と袂を分かったのだ。人間と他の動物である人間の習性に雌を入れたのだ。それが社会であり、構成する人間のエゴと懸け離れている。欲望は枯れ、エゴだけが残り、人間の詰まらぬ理屈をいうのなら、それは動物にして厄介だ。檻に入れるかしないと身が持たない。収監されたエゴは欲望と切り離され、人間の教育に再利用される。