心の自由

古代魚  2009-08-03投稿
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心を奪われない自信が、果たして在るだろうか。人間は、弱くて、美しいものだから、直ぐに心を奪われてしまう。呑気に暮らしていれば、そうでもないが、都会では24時間働いている。そうまでして守らなければならない富を、安易に使ってしまうと直ぐに見破られる。


心は失い、疲れた人間の世話で見離されたのだ。心に見離され、人間の世話が大変だと、行き場を失った心は行方を探すようになる。富の現状では人間を鎖に繋ぎ、失う心も行方知らずでは、心は幾つ在っても足りない。心を奪われない自信があるなら大丈夫だが、行方を追うようになると行方知らずだ。


いつも不安定で安心しなくなり、不安を酒やら煙草やら、心を曇らすもので紛らわし、俄かに雨だ。彼らは行方を追い、酒や煙草といった誘惑に負けたのだ。人間は誘惑がついて回る。人間の誘惑にセックスなど日常を支配するもので溢れている。


富は繋がれ、人間の心は厳重に仕掛け、惑わされないと判ると、人間は富を使うようになる。繋がれた鎖を自らのたぎりで切ってしまう。そして買い物に出掛け、富の在る現状を打開すべく闘っている。富を鎖と例えて、人間は鎖に繋がれ面白くない。それは富の性質が、奴隷を必要としているからだ。心を失ったのでは奴隷と変わらず、人間も深酒が祟ると家族崩壊になる。曇らす雨を喜び、晴れを粗末にすると、鬱など人間が滅入ってしまう。


人間は晴れた日に出掛け、富と決別すべくピクニックなど出掛けるが、そこに鎖はなく、人間を縛った環境は見事に花咲く。自由とは富を失い、また、自由とは人間の縛りを考える。いったい自由とは我が儘だ。我慢すべきは使わずに、必要な判断は野放しである。


ここで、自由とは精神の自由であり、神からの自由だ。自由を誓った筈なのに、自由を損ねるとは神として言語道断である。底値で引き取って貰うかしないと自由も気安くない。神は底値で自由を引き受けるべきだ。

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