一年前の夏
私は愛する息子を不慮の事故で亡くした。
今日は息子の命日である。
午後2時。自宅の電話が鳴った。
『母さん、オレ』
聞き覚えのない男の声。
男は『オレ』としか言わない。
車で人を轢いてしまった。
示談金が必要だから50万都合つけてほしいと泣きながら私に助けを求めてきた。
なんてこと…
よりにもよって、あの子の死んだ日に、あの子を装って、私から、お金を騙し取ろうとするなんて…
私は、電話口の男に言った。
『手元に百万あるわ、直接渡したいんだけど、どう?』
相手は食いついてきた。
途中、弁護士と名乗る男が電話を代わる。
相手は、まことしなやかに事務的口調を装い時間と場所を指定してきた。
電話を切った私は身支度を始めた。
包丁を風呂敷に丹念に包み、鞄の中に入れた。
自分が何をしようとしているのか自分でもわからなかった。
少なくても表面上は冷静だった。
心が氷のように冷たくなっているだけだ。
玄関を開けると、もわっとした湿った空気が顔に全身に当たった。
『母さん…』
背中越しに声が聞こえた。
懐かしい息子の声だった。
まさかと思い 部屋の中を見渡す。
誰もいない…
『母さん』
今度は、はっきり聞こえた。懐かしい匂いまで感じた。
私の身体を、抱きしめるように何か温かいものが包み込み、そして通り抜けていった。
私は放心状態のまま玄関先で崩れ落ちた。
涙が溢れ出て視界を遮る。
お願い…
お願いだから、もう一度声を聞かせて…
セミが一声ミンと甲高い声で鳴いただけだった。