彼女は缶コーヒーが好きで、僕らの部屋はいつもコーヒーの香りが漂っていた。
僕はコーヒーは飲めないがその香りには好感を持っていた。うまくいかず、苛立ったときもその香りにいくらか安らぎを覚えた。
彼女は僕がコーヒーを飲まないことを不思議がった。そのくらい彼女にとってコーヒーはあって当然のものだった。僕はそのたび彼女に、苦いのは苦手なんだよ、と言った。彼女はふーん、と返事をするがいつも納得してはいない様子だった。
彼女は毎日その日に飲んだコーヒーの空き缶を台所に並べていた。日記をつけるみたいに。空き缶は一週間もたつと山のようにたまった。彼女には捨てる気がないらしいので、山ができるたび僕がそれを捨てた。
彼女がいなくなったのと同時に、僕の生活からコーヒーが消えた。
その日、彼女は普段と変わりなく仕事に出かけた。それから彼女は再び帰ることはなかった。
彼女がいなくなり、部屋にこびりついたコーヒーの香りも日に日に薄らいでいった。僕はそれを感じるたび、ぼやけた陽炎の中でだんだん彼女が僕から離れていくのを感じた。
コーヒーの香りがすっかり消えたころ、僕はなぜだかコーヒーを飲みたくなった。そして、一人なにかを確かめるようにコーヒーを飲んだ。
右手に持った缶から漂う懐かしい香りがほのかに僕の鼻に触れた。
不思議と苦いとは思わなかった。しかし、僕にはその黒い液体がひどく味気ないものに感じられた。その液体を飲み干した僕は、彼女はなんでこんなものばかり飲んでいたんだろう、と思った。そして彼女のことを考えた。
彼女はもしかしたら美味しいコーヒーを探しにいったのかもしれない。
もしくは…。
いずれにせよ、彼女の側には今も缶コーヒーがあるのだろう。
そして僕はなぜか、外国の知らない山のふもとで缶コーヒーを飲む彼女の姿を思い浮かべた。
そんな取るに足らない想像の中の僕を玄関のチャイムが現実に引き戻す。
二度目のチャイムに急かされ、僕は玄関のドアを開けた。