「ケンジ…。大丈夫?」
見知らぬ女が僕を見て話しかけてきた。
僕は病室のベッドで横になっていた。
「記憶をなくしてまで…」
女の目には涙が浮かんでいた。
悲しいのだろうか?
嬉しいのだろうか?
僕にはわからない。
「ケンジ……」
女は僕の右手を強く握りしめた。
僕は戸惑った。
「あ、あの…」
「どうしたの、ケンジ」
「あなたは、誰?」
僕がそう言うと、女は悲しそうな顔をした。
僕にはなにもわからなかった。
なにが、どうしたというのだろうか…。
「ケンジは、手術のお金のために、記憶をなくしたの…。話は全部、男の人から聞いたわ」
「手術…男の人…どういうこと?」
「やっぱり、なにも覚えていないのね」
「手術って、誰の?」
「……」
「もしかして、あなたの…?」
女は首を、横に振った。
「わたしは、あなたの母親なの」
僕はあまり驚かなかった。ある程度予感はしていた。
それにしても、さっきの話が本当なら、手術を受けた人は僕に礼を言いにくるべきではないのか…。
僕は、すべての記憶と引き換えにしてでも、その人のことを助けたかったのだろうか…。
そんな僕の思いを察したかのように母が言った。辛そうだった。
「実は、手術は失敗したの…。ケンジの大切なその子は、死んでしまったのよ…」
僕の胸に、なぜだか、悲しみが溢れだした。
「じゃあ僕は、なんのために記憶をなくしたんだ!!
もう、どうなっているんだ!!」
そうやって悲しみ嘆いている僕に、母が静かにささやいた。
「これから楽しい思い出をつくっていけばいいじゃないの」
僕のからっぽの頭に、母の優しい言葉が、はっきりと記憶された。
―終わり―