「一馬、今日部活ねぇから遊ぼうぜ」
「わりぃ。今日カテキョ」
毎週水曜と金曜に、家庭教師がやってくる。
意思に背いて何かを全うしようとするのは、僕にとっては絶望でしかない。
憂鬱な出来事は、度々僕の進む足を重くさせた。
「一馬!」
気がつくと稲荷川さしかかっていた。
深い緑の川からは、いつもと違う香りが漂う。
僕は声に止まった。
このまま振り向いたら、激しい鼓動に負けて、僕の心臓は止まるに近いほどだった。
「今日カテキョなの?カラオケ一緒に行けないんだね」
僕は不自然にうつむいたまま振り返った。
「まあ、そう。ごめん」
まだあのなんの香りかわからないほど、澄みきった香りが僕の鼻をくすぐる。
次の瞬間だった。
何かに押された気がした。
そして僕の目線の先には、確かに君の耳があった。
何が起きたのかわからない中で、柔らかいものが僕の唇に当たっていることにだけは気づけた。
さいか、君の唇が、確かにこの唇を触れていた。