矢口の、今は亡き父親は、“恐神岳山岳警備隊”の、初代隊長である。
当時も毎年の様に、遭難事故が有り「もっと正確な地図を作れ」と、市役所に対して、何度も進言したが、市役所の観光課は「国が作った地図は正確だ!」と言って、聞き入れてくれなかった。
仕方なく矢口の父親は、実際に自分の足で歩き、万年雪の厚さや、その下の谷の深さ等を測量して、独自の地図を作ったのだ。
とは言っても、完成する直前に父親は、還らぬ人となった。
セスナ機が行方不明になった、更に1年前の秋、矢口の父親は、大方の測量を終えて、一番“鳴神山”寄りの谷の測量に、4人の部下と共に出掛けた。
そして、雪渓の上を歩いている途中に、足を滑らせて滑落してしまった。
霧が深く、何れくらい滑ったか分からず、1週間、1ヶ月と捜索が行われたが、とうとう遺体は発見されずに、捜索が打ち切られた。
その後に、息子である矢口も加わり、地図は完成した。