「申し遅れましたが、私は武田三郎といいます。
…宜しければ、貴女のお名前を教えていただけませんか?」
半次郎を埋葬してくれたこの女性に、三郎は恩義を感じていた。その恩人の名を知っておきたかったのだ。
女に教える気はなかった。だが、三郎が無垢な瞳で見続けていると、堪らず口を開いてしまった。
「………ノアだ」
「ノア殿ですか、いいお名前ですね」
三郎は笑顔でそういったが、ノアは何も答えず、それ以降も口を開くことはなかった。
この時の三郎には知る由もなかったが、このノアに出会った事が、後に彼の運命を大きく変えることになる。
「あれが長尾景虎の居城だ」
春日山城が見える場所まで来ると、ノアはそういって三郎を見た。
「私は人との関わりを好まない。だから、ここからはオマエ一人で行け」
これ以上の同行は長尾家の人間との関わりを意味し、ノアはそれを嫌った。
「ありがとうございました」
三郎が頭を上げるよりも先に、ノアは背を向けて歩きだしていた。
「ノア殿、また逢えますよね」
振り返ったノアは少し怪訝な顔をしていた。
彼女にしてみれば、逢ったところで何ら用は無いし、何より彼女は人に関わることを極端に嫌っていた。
今回三郎に関わったのは、単なる彼女の気まぐれなのだから。
それでも三郎は笑顔で語りかける。
「ノア殿に受けた恩、いつの日か必ずお返ししたいのです。だから、また逢えますよね」
もう一人の恩人である半次郎は世を去り、感謝することしか出来なくなった。
せめてノアには恩返ししたいと、三郎は願ったのだ。
ノアは三郎の義理堅さが可笑しかったが、同時に心が和むのも感じていた。
「……ならば十年後、あの男が寝る地に来い。運が良ければ逢えだろう」
そういったノアの顔は、微笑んでいるように見えた。