だがアニキが倒れている場所まであと一歩のところで電車の扉が開き、乗降の人波に俺は行く手を阻まれた。
そして前方のドアからは、若者達に引きずられ、血だらけになったまま降ろされるアニキの無惨な姿が、かすかに見えた。
「アニキ!!」
大きな声で俺は初めて、彼のことをそう呼んだ。
――アニキの右手が小さく動いた。
駅のホームでは警察が、来たるべき痴漢の犯人を待ち構えていた。そして周囲の怒号の中、血まみれのアニキは抱きかかえられるように連行されていった。
俺はと言うと、騒ぎを止めることも出来ず、電車から降りることさえ出来ず、自宅へと向かうだけの、ただの意気地なしの男だった。
俺は泣いた。
大声で泣いた。
数日後、アニキは強制猥褻罪で起訴され、会社を解雇された。
残された奥さんは離婚届を提出し、幼い子供を引き連れて実家に戻ったらしい。
その後のアニキの消息は分からない。
――あの事件から一ヶ月。
アニキの負のレッテルは、どれくらい重いのだろうか?
俺のレッテルは大丈夫か?
そんなことを考えながら、俺は書類の整理をようやく終えた。そして辞表を机にしまい込み、誰もいない営業所を後にした。
(完)