−同日、夜−
晴信は縁側に座して月を見ていた。我が子に刺客を放ったこの男は、酒を飲みながら何事かを考え込んでいた。
「お館様、三郎様を取り逃したとの報告が入っております」
背後に膝まづいた家臣がそう告げた。晴信はその家臣を一瞥すると、鼻で笑って酒を飲み続けた。
「三郎は越後に逃げ込んだか、…お前の思惑通りに事が進んだな、信房」
信房が三郎と内通していたことに、晴信は気付いていた。
信房自身も隠し通せるとは思っておらず、三郎を逃がすと決めた時点で覚悟は決めていた。
「……いかなる処罰も覚悟しております」
だが、晴信に処罰する気はなかった。
彼は三郎を武田家の枠外に追い出せたのならそれで良しと考えていたし、なにより信房は得難い人物であり、武田家には必要な存在なのである。
「三郎は夭逝したものとして武田家の記録とする、それで今回の事は全て終りだ」
その背中を見つめる信房は、晴信自身も三郎を死なせたくなかったのではと考えていた。
非情に見える晴信であるが、本来彼は家臣や領民を大事にし、内政にも力をいれる、明君といって差し支えない人物だった。
晴信が領民を大事にした証拠の一つが、今も山梨県に残っている。
信玄堤<しんげんつつみ>と呼ばれる堤防で、これは洪水に苦しむ農民達のため、晴信が築いたものだという。
その晴信が四人いる子の中で、最も優れていた三郎を邪険にし、手に掛けようとしたのは、彼の過去に起因していた。