昨日、彼女がいた場所からはまだ遠い、
扉からも少し離れた芝生の上で、
塚本は座り込み、デッキから、曲を流し始めた。
持ってきたCDは、ゴスペルシンガーのレーナ・マリアという女性ボーカルだった。
生まれながら、両腕はなく、左足は右足の半分の長さしかない、という重度の障害を持って生まれる。
それでも、彼女の両親は、普通の子たちと同じように育てようと、普通校の小、中学校と学ばせた。
自分で食事、通学、水泳もする。
彼女の歌声は、ストックホルムの音楽大学で学んだあと、更なる活動を始める。
日本では、障害を持つ子供は、奇形児とも呼ばれ、
親子ともども、何か恥ずかしい、みっともないもののように扱われた時期があった。
今でこそ、障害を持つ人たちのひたむきさ、一生懸命さに感動する番組や放送があって、彼らの生き方に共感する人たちも多いが。
小学生の頃、同じ学校に通う小児麻痺の子に、
「ショーニがうつる」
と小馬鹿にはやし立てる子供もいた。
生まれたばかりの障害を持つ赤ちゃんに向かって、
「残念ですが、、、」
と子供を差し出す看護士さんがいる、と日本では聞いた。
それに反して、
「子供は神様からの贈り物。
何か目的、意味があって、神様はこの子をこのように造ってくださったのだわ。」
と話したというスウェーデンのこの夫婦の文化に、少なからず、影響を受けた。
いや、大きなショックを受けた。
なんでこんなにも、文化によって、
人への受け取り方が違うのだろう。
ある地域、文化の中では、
愛され、受け入れられるべき存在が、
別の地域、文化では、
排除される存在となるのだろう。
まだ10代の、
問題意識は持てても、
それを変えれるだけの力のない、塚本の、
怒りに似た、悔しさだった。