僕はいつものように教室のドアを静かに開け、出来る限り音を立てないように椅子をひいて座る。
静かに、静かに、存在を消すように。
「おはよ。」
隣から声をかけられる。身体に緊張が走る。
「おはよう。」
声が震えないように、慎重に言った。
前髪の隙間から隣を見ると、遠藤ユミコはくったくのない笑顔を向けていた。前髪ごと後ろに束ね、形の良いおでこが見える。長い睫毛は自然に上を向き、丸く黒目がちな目は孤を描き、三日月型になっている。
「…………ない?」
僕は彼女の言葉を聞き逃していた。
「ごめん、え、何?」
「それ、目に刺さらない?」
遠藤さんは、長く綺麗な指で僕の眉間の辺りを指した。僕の目はその指に吸い込まれるように、中心に集まる。指先が微かに前髪を揺らし、くすぐったい。
思わず顔を背けた。
遠藤さんは大きな声で笑った。僕は予想外の反応に振り返る。
「後藤くん、寄り目!」
さも楽しそうに口を押さえて笑っている。でも嫌な気分はしなかった。それは馬鹿にした嘲笑ではなく、誰に対しても平等に与えられる彼女の無邪気さだということが、分かるからだ。
「おはよ、ユミコ!」
「あーおはよ!さとちゃん。」
遠藤さんの周りにはいつの間にか、人が集まっていた。彼女の魅力に引き寄せられるように。
僕はその隣で静かに、存在を消すことを考える。心を無にすれば、一人でいることは怖くない。何も感じなくなる。麻痺させるのだ。感情を。
そして僕は見えなくなる。
「おはよう、ユミコ。」
瀬戸さんが控えめな声で言う。この二人は親友らしく、時間さえあればいつも何か楽しそうにしてる。瀬戸さんが遠藤さんの部活が終わるのを待ってたりもする。
「後藤くん、おはよ。昨日は大丈夫だった?」
瀬戸さんは僕の存在に気付いてしまったらしく、話し掛けてくる。僕は消えそびれてしまったようだ。
「うん、大丈夫だよ。まだ病院みたいだけど、夜には大分元気になってた。」
「良かった。」
瀬戸さんは心から安心したような、優しい笑みを浮かべた。
「はい、みんな席つけー」
チャイムと同時に担任の秋谷先生が入って来る。
瀬戸さんは素早く反応し、席に走る。