翌朝、大澤が自宅を出ると、満面の笑顔で八雲が待ち構えていた。
深くため息をついた大澤はその存在を無視して学校に向かうが、八雲は気にせずその背中に語り続けた。
そして校門へたどり着くと、そこで大澤の忍耐力が臨界を向かえた。
振り返き様、八雲に左の拳を叩き込む大澤。
一見細身に見える彼だが、その筋力は常人離れしており、簡単に数メートル先まで殴り飛ばしていた。
痛々しく上半身を起こす八雲に、大澤はきっぱりと言い捨てた。
「いい加減にしろっ、これ以上殴られたくなければ、二度と俺に付き纏うなっ!」
険しく睨みつける大澤だが、それでも八雲の飄々とした表情を崩すことはできなかった。
「どんなに殴られても、オレは諦めませんよ」
殴られてもなお笑顔でいられる八雲に、大澤は不思議な感覚を受け始めていた。
だが今は、あまりのしつこさに呆れ返る感情の方が強かった。
「俺は二度とする気は無いといった筈だ、頭数が欲しいなら他をあたれっ!」
ゆっくりと立ち上がる八雲は、射抜くような視線で大澤の目を見た。
「大澤さん、本当に野球が嫌いなんですか?」
この時になって大澤は、八雲の瞳が無垢な童子のように澄んでいることに気付く。
その瞳に、心底を覗かるような錯覚を受けた彼は、無意識に目を逸らした。
「…ああ、嫌いだ」
背をむけて歩き出す大澤。その背中に、八雲の言葉が鋭く突き刺さる。
「嘘だね、敬遠されるだけの打席に立ち続けた男が、そんな簡単に野球を嫌いになれる筈がない」
驚いて振り返る大澤に、八雲は悲しく語りかけた。
「哲哉から聞きました。あんな事があれば、野球するのが辛くなるかもしれない。でもね、辛い事と嫌いな事は必ずしもイコールじゃない。
心底嫌いになったなら、何で野球を否定する度に目を逸らすんですか?」
まっすぐな八雲の言葉が、大澤の心を揺さ振り始めていた。
だが、それでも彼の頑な心は、八雲を否定したがっていた。
彼の脳裏には、あの時の冷ややかな仲間の視線が、今も焼き付いて離れないのである。
「…それでも同じ事が繰り返すだけなら、いずれ嫌気がさす」
その瞳は輝きを忘れた星のみが支配する虚空のように暗く、悲哀に満ちていた。
彼は漸く気付いたのだ。これ以上嫌いたくないから、野球から遠ざかりたいのだと。