あの夜どんな会話があったか詳しく覚えていない。
覚えているのは、話を聞いているときに、君がそっと僕の手を握ってきたこと。
それはとても静かな動きだったのに、怒っているように荒々しく、またすがりつくように力強かった。
君を見た。
怒ったようにうつむいていた。
僕は迷ったが、強く握り返した。
君の目から涙が流れた。
僕の手がさっきよりも強く握られた。
気が付くと僕も泣いていた。
君の手はとても暖かかった。
そしてもう一つ。僕に最初に話し掛けてきた男の人の言葉。
「どんな状況でもその瞬間を楽しめ」
どんな辛いときだって、見方次第で良いこともある。人生は一回きりだ。楽しまなきゃ損だぜ?
そんな言葉が印象的だった。
その通りだと思った。いつかそんな大人になりたいと思った。
その部屋に居る人はみんな“今”を生きていた。
今したいことをする。
そのときの気分で行動する。
その部屋にはそんな空気があった。
そのだらっとした空気はとても居心地がよかった。
「頑張んなくていいんだぜ?」
そう言われてるように感じた。
そうして、だらっとした空気の中で僕達は仲直りした。したと思っていた。
君は突然立ち上がり、帰ると一言言って部屋を出ていった。
仲直りしたのだから当然一緒に帰るのだろうと思っていた僕は、あまりに突然のことにただ唖然としていた。
「ほら、何してんの? 追っかけなさい!」
女の人が僕の背中をどついた。
我に帰った僕は、お礼もそこそこに部屋を飛び出した。
一気に階段を降りたが、君の姿は見えない。
君の名前を呼びながら駅まで走った。
どこにもいない。
どこにいる?
もう電車に乗ってしまうかもしれない。
券売機に駆け寄り一番安い切符を買い、改札をすり抜けホームに走った。
やはりいない。
自分の鼓動と息しか聞こえない。
僕はベンチに倒れ込むように座った。
汗が滝のように出ている。
呼吸が落ち着き体勢を元に戻す。
いた。
線路の向こうの道路に君はいた。
僕はさっき降りたばかりの階段を駆け上がった。
「大事なものを忘れてしまったんです」
改札横の駅員に切符を渡し、階段を駆け降りた。
君がいる。
僕は言った。
「一緒に帰ろう」
「うん」
君は泣きながら頷いた。
君の手を握る。
とても暖かかった。