そして正面にはカウンターのようなものがあるが、そこに椅子はなかった。
そのカウンターの中にドアのない入り口が見え、どうやらその奥が厨房になっているらしい。
それほど広い空間ではないので、室内は一目で見渡せたが、川島美千子の姿は見当たらない。
その代わりに、カウンターの上に大きな猫が座っていた。
綿毛のようにふかふかとした真っ白い猫で、その青い瞳で石崎武志のことをじっと見ている。
厨房の奥から川島美千子の声がした。
「どこにでも好きな所に腰掛けていてください」
石崎武志は言われるままに、右側の奥のテーブルについた。
また奥から川島美千子の声がした。
「その子の名前はシャーベットよ。
おりこうさんな猫なの。
よろしくね」
シャーベットは身動きひとつしないで、相変わらず彼を見ている。まるで置物のようだ。石崎武志は改めて店内を見渡した。
壁に絵などは飾られてなく、その代わりに奇妙な物が並べられていた。
立って手をのばせば、ちょうど届くあたりに棚が設けてあり、その棚は壁の端から端まである長い棚で、それが左右両側の壁にあり、その棚に大小様々なガラスの小瓶が、ぎっしりと並んでいた。
ざっと目で数えてみたが、片側の壁だけでも百を大きく上回る数の小瓶が、隙間なく置かれている。
彼は立ち上がって、そのひとつを手に取ってみた。
彼が手にした小さなガラス瓶の中には、赤茶色の粉のような物が八分目ほど入っていた。他のガラス瓶を見ると、どうやら中身はすべて違う物ようだ。
粉のような物もあれば、粒状の物や板状の物もあった。
「それ、全部スパイスです。
香辛料なんです」
振り向くと、カウンターの中に、エプロンをした川島美千子が立っていた。
「スパイス?これが全部?」
「ええ、そうです。
それよりも、お食事まだでしたよね。
今、カレーを温めていますから、召し上がっていってください。
カレーお好きでしたよね」
そう言った彼女の背後から、鼻をくすぐる刺激的で、それでいて甘ったるいような、カレーの香りが漂ってきた。
その洗練された豊かな香りは、次第に室内に満ち溢れ、そして彼は身体中の細胞が騒めきだすのをはっきりと感じた。
彼は確かにカレーは好きだった。
だが、こんな感覚に襲われたことはなかった。
それは単に食欲だけでなく、心ごと引きずりこむ芳醇な香りだった。