武田本陣は上杉方が大攻勢を仕掛けたこともあり、防御が薄くなっていた。
それもあって、半次郎は難無く敵本営の奥深くまで、足を踏み入れることができていた。
馬上から信玄を見つめる半次郎。
かつて自分に刺客を差し向け、抹殺しようとした男だったが、不思議と憎しみは感じていなかった。
もっとも、親しみも感じてはいなかったが。
床机に腰掛ける信玄も、敵陣深くにたった一騎でやってきた若武者に興味をもち、視線をむけていた。
その面立ちに懐かしい面影を感じた信玄は、立ち上がって問いかけていた。
「……貴様、三郎か?」
半次郎は何も答えなかったが、信玄はそうであると確信していた。
既に信玄との間には、十名以上の近衛兵が防御の壁を築いていた。
馬を降りた半次郎はゆっくりと跪き、そして口上を述べた。
「政虎公は武田家との同盟を了承してくださいました。信玄公にも会談の席について頂きたく、使者として参りました」
同盟の言葉に、信玄は不快感を顕にした。
信濃攻略の橋頭堡として海津城を築き、敵に倍する軍勢を導入してなお、劣勢を強いられる信玄は政虎に対して、払拭できない劣等感を感じていた。
そこに同盟を持ちかけられては、彼にとって屈辱以外の何物でもなかった。
「……憐れみで同盟を結ぶと申すか、そのような戯れ事、承諾できるかっ!」
「憐れみなどではありません。政虎公は貴方と手を組む事で戦乱に終止符をうち、戦に苦しむ民衆を救うと決意されたのです。
甲州の民を慈しみ、善政を行う貴方にならご理解頂けるはずです。どうかその慈しみの心を、全ての民にお向け下さい」
「それが奢りだというのだ。政虎に伝えるがいい、貴様と手を結ぶくらいなら、この地で滅んだ方がましだとな」
半次郎は落胆した。
実の父親でありながら共感することのない信玄に、彼は深い悲しみを感じていた。
「……父上、最初で最後の願いです。どうか上杉と手を結び下さい」
「完全に上杉の犬と成り下がったか、恥じ知らずめ」
「その上杉に私を追いやったのは、貴方ではなかったのですか?」
もはや説得は無理だと判断した半次郎は、覚悟を決めて立ち上がった。