ゆっくりと刀を振り上げる半次郎。
標的である信玄は、おもむろに語り始めた。
「……お前を追い出した後、義信はわしを責めおった。我が弟に何の非があったのかとな。あやつが後を継げば、お前の話しにも耳を傾けるであろう。
だから、決して義信とは争うでないぞ」
その内容に詐りはなく、兄弟で争わないことの代償として自分の命をくれてやろうと、信玄は考えていた。
兄である太郎義信の名を耳にし、半次郎は幼少の頃の事を思い起こしていた。
信玄の不興を買うのを恐れ、家中の者達は半次郎に関わろうとしなかったが、長兄の義信と家臣の馬場信房だけが孤独な少年の心に、親身に接してくれた。
この二人がいたからこそ、半次郎は性格が曲がらずにいれたのであり、その事にたいして彼は、終生感謝の念を忘れることはなかった。
「…兄上の代で可能なことなら、貴方の代で成してもよいのではないですか?
努めて感情をころして問う半次郎。
こたえる信玄は穏やかな表情をうかべ、自嘲した。
「無理だな、わしと政虎では信念が違い過ぎる。
奴は義を謳って戦うが、それが家臣達に何の見返りを生み出す?
君主たるもの、臣下や領民の生活を保証する事が、一番の責務のはずだ」
半次郎は考えていた。信玄のいう、君主の責務故に自分は家を逐われたのではないかと。
一つの勢力に拮抗する実力者が二人いれば、その勢力は二つに割れかねない。
たとえ半次郎にその気がなくても、担ぎ上げようとする者は必ずあらわれる。
組織とはそういうものなのである。
「…やはり翻意してはいただけませんか?」
一縷の望みを託して問う半次郎だが、信玄は何もこたえず、ただ目をとじた。
もはやこれまでかと、半次郎は大きく息を吸い、覚悟を決めた。
『…貴方が甲斐の国を想って私を逐いやったのなら、それは己の責務に忠実だっただけのこと、恨む気はありません。
だが貴方が乱世を終わらせるための障害となるなら、私は貴方を切る。
貴方が実の親であっても、私には貴方から優しくされた記憶は何一つ……』
半次郎の刀が、振り下ろされた。