そんな中、大資の読む絵本や本の内容は、
あからさま、というほど、みなしご達の話だった。
赤毛のアン、長くつしたのピッピ、みなしごハッチ、
母をたずねて三千里、小公女セーラ、フランダースの犬、
マッチ売りの少女、シンデレラ、白雪姫、白鳥の子。
フランダースの犬は、読んで聞かせている大資だけが、
感動して涙を流していて、
他の子たちは、可哀そう過ぎて、余計に落ち込んでいたことを伝えると、反省していたが、
それでも、
次第に、見ている子供たちの内に、やる気や生きる希望が湧いてきているのは明白だった。
絵本の中の自分と同じ年代の子供たちが、
長い長い旅に出たり、
自分で物を売って生活したり、
一人で大きなお屋敷に住んで自由に暮らしている姿は、
施設で暮らしている子供たちには、とても想像に浮かんだことのない景色、出来事だった。
もしかしたら、
自分の人生にもそうした変化が起こるかもしれない。
自分の人生に、もうこれ以上何も求めない、
そのように生きていた子供たちの中に、
少しずつ、希望を求める変化が起こってきた。
何度も何度も続けて同じ本を読んでほしい、と願う子供たち、
次から次へと、新しい本へと自分の知っている世界を広げてゆこうとする子供たち。
飢え渇きのような、沸き起こる探求心のようなものが芽生えていた。
今までだれも見向きもしなかった、
科学や、植物、昆虫、動物の図鑑にさえ、
順番を待てない子供たちの流れが出てきた。
恐竜図鑑、歴史書、国語の本、算数。
荷物をまとめて放り投げていった、両親の残した子供たちの持ち物を、
次第に貸し借りしては、色んなことに対する意欲を増し加えていった。
渇いたスポンジが、
満ちてゆく。
彼らは、自分たちが吸収できるだけのものを受け取るのではなく、
大きなバケツの中に、自分たち、渇いたスポンジが入ったのだ、ということを知った。
この世界には、吸収できる以上のものが、もっともっと溢れている。
満ちている、と。