アンドロイド『レッヒェルン』のしがない一日

銀天  2010-01-10投稿
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 私の一日は朝日が昇ると同時に始まります。
 この古く朽ちかけた礼拝堂に住み込んでいるのは、当然私しかいません。
 だってこんなところにもうヒトなんていません。私がここに流れ着いたときには猫の子一匹もいない、廃墟と成り果てていましたから。
 ヒトがこの惑星から去ってもう何年になるでしょうか・・・・・・
 資源が枯渇し、新天地を求めこの大地から空の彼方に去っていったヒトは今どこで何をしているのでしょうか。
 大地に残されたのはアンドロイドの私と、小数の野生動物、そして僅かな広さの森林地帯だけです。
 話が脱線してしまいましたが、私こと第五世代型アンドロイド『レッヒェルン』は太陽光を原動力としています。つまりはソーラーパワーで動きます。
 なんとエコロジーなアンドロイドなのでしょう。
 さてそんな私が毎朝必ずやること。
 それはこの礼拝堂に残された壁画の手入れ、及びまだ衛星軌道上に浮いている通信衛星とリンクし、貴重な文化財がまだこの『地球』に残されているという内容の通信信号を送ることです。
 ですが先程述べたように、私はソーラーパワーで動いていますので活動時間は原則的に日中に限られますが、エネルギーを貯蓄し悪天候時に稼動できるようにすることができます。
 さてこの礼拝堂に残されたた絵画ですが、どうしてヒトはこんなに大きなモノを忘れて空へ旅立っていったのか疑問に思う時があります。
 その壁画は『最後の審判』と呼ばれていました。
 『最後の審判』とは、キリスト教における重要概念です。世界の週末時に神が人類に下す裁きをいい、メシア(救世)の到来ともに行われるといいます。終末論を端的に体現する思想であり、<審判> が<救済>をも意味するところに独自性があります。
 私はこの壁画を見る度に思うのです。
 ヒトは『資源枯渇』という神の裁きを受けたのだ、と。
 居場所を失ったヒトは、自分たちの新しい居場所を求めて故郷から出ていったのでしょう。
 私はアンドロイド『レッヒェルン』−『微笑み』と名付けられたのに、微笑むことができません。
 女神のような微笑みを浮かべることができるように、私は今日も同じ事を繰り返します。
 その地道な努力がいつか大成することを願いながら・・・・・・

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