コンサートホールの中には決して満員とは言えないが、大勢の観客がざわめいていた。
パンフレットの中には一人のピアニストが彼らを見つめて微笑んでいる。
木村 蒼(アオ)
まもなく始まったこの若干14歳の少年の演奏が彼らの度肝を抜き、また同時に感動の涙を流させるなど、誰が想像しただろう。
会場は満員でないにも関わらず、その演奏に対する拍手は一流のそれに対するものと大差ないと言ってよかった。
誰もが期待した。この少年の更なる成長を。より美しくなる旋律を。そして、いずれは世界で活躍することを。
それが十年前の話である。
『山を一歩ずつ踏みしめて登るように。
川に逆らわず流れて行くように。』
ふと、そんな言葉を思い出した。
(確か、先生が言ってたんだっけな。)
蒼が目を覚ますと、そこは安いホテルの一室だった。まだ夜は明けていないらしく、どことなく薄暗い。近くで、シャワーの音がする。
蒼はゆっくりと煙草に火を付けた。わずかな目眩。二日酔いがまだ残っているようだ。
何度目を覚ましても、コンサートホールには戻れない。頭では分かっていた。
かつての天才ピアニストも、今はしがないホストである。
「笑えるな。」
自嘲気味に呟いた。
「何が?」
タオルで髪を拭きながら鏡越しに尋ねられた。さっきまで自分の横に寝ていた女だ。
「いや…」
蒼は一瞬口ごもると、それとなしに訊いてみた。
「ピアノ弾けるか?」
「ん〜…小学生のときちょっとしたけど〜。あ、猫踏んじゃったなら弾けるよ。」
「ああ、そうか。」
なるべく落胆の色を出さないようにした。
「そういえばアオくんってピアニストだったんだよね。何か色んなとこで演奏したりしたんでしょ?海外とかも行ったんだよね〜。」
「そうだな。」
最後に行ったのはウィーンだった。
あの頃はまだ夢も希望も、それに見合う実力もあった。
何がいけなかったんだろう。当時のことを思い出そうとしてみる。が、
「アオくん?」
記憶遡行の旅は中断された。
「悪い。考え事してた。」
もう、堕ちるとこまで堕ちたのだ。今更考えたってしょうがない。
そう思いながらも、蒼の指先は無意識に動いていた。
ピアノ協奏曲20番。
夜が、明ける。