山のモーツァルト5

ヒカル  2010-02-19投稿
閲覧数[324] 良い投票[0] 悪い投票[0]

秋一が到着する一週間前の話である。

「どうして僕がピアニストだと?」
蒼は声が震えるのを抑えながら訊ねた。
「違うの?」
彼女は当然の答えに念を押すように聞き返した。
「蒼ってピアニストだったのか?」
「そういえば私聞いたことあるかも。」
周りのざわめきは徐々に形となって蒼の耳にも入ってきた。
「是非一曲お願いできないかしら?」
そう言うと彼女はフロアの中央にあるピアノを指差した。普段はインテリアとしてしか使われていない、飾り物である。

彼女が言った後、他のテーブルからも彼の演奏を煽る声が聞こえた。どうやら店が場を盛り上げるため指示を出したらしい。
蒼は心の中で舌打ちすると、渋々ピアノの前に座った。

ピアノは奇跡的にも調律は必要なかった。蒼は鍵盤に触れ、軽く音を出して席に着いた。

その時だった。何かが彼の頭の中でフラッシュバックした。それが何かはわからない。

蒼はそのまま意識を失った…はずだった。

気が付くと、ホテルの一室だった。蒼が目覚めたとき、あの女が視界に入った。

「ここは…。」
「素晴らしいじゃない昨日のコンサート。」
「コンサート?あの時俺はぶっ倒れて…。」
「いいえ。」
彼女はおもむろにレコーダーを取り出すと、スイッチを入れた。

ショパン。
曲は夜想曲(ノクターン)。

「演奏は繊細かつ優美。そして、何より魂がこもっているわ。」
感激しているのか、体を震わせ一拍置くと、

「これを全て貴方が弾いた。確かに演奏前に少しよろけたようだったけど、意識は失ってなかったようだわ。」

そんな馬鹿な。

蒼は言葉を失っていた。

俺はピアノを弾けないはずなんだぞ。

事実、彼はこれまでピアノを弾こうとすると必ず指に痙攣が起きていた。それが引退の原因でもあったのだ。

指の痙攣は十年前のあの日から。

ウィーンに行って、

「本題なんだけど。」
急に視界に彼女の顔が現れた。

「私が聴きたかったのはショパンじゃないのよ。」

そして、これが彼女の癖なのだろう。一拍置くと、

「『妖精の歌』を弾いていただけないかしら。」

i-mobile
i-mobile

投票

良い投票 悪い投票

感想投稿



感想


「 ヒカル 」さんの小説

もっと見る

ファンタジーの新着小説

もっと見る

[PR]


▲ページトップ