秋一が到着する一週間前の話である。
「どうして僕がピアニストだと?」
蒼は声が震えるのを抑えながら訊ねた。
「違うの?」
彼女は当然の答えに念を押すように聞き返した。
「蒼ってピアニストだったのか?」
「そういえば私聞いたことあるかも。」
周りのざわめきは徐々に形となって蒼の耳にも入ってきた。
「是非一曲お願いできないかしら?」
そう言うと彼女はフロアの中央にあるピアノを指差した。普段はインテリアとしてしか使われていない、飾り物である。
彼女が言った後、他のテーブルからも彼の演奏を煽る声が聞こえた。どうやら店が場を盛り上げるため指示を出したらしい。
蒼は心の中で舌打ちすると、渋々ピアノの前に座った。
ピアノは奇跡的にも調律は必要なかった。蒼は鍵盤に触れ、軽く音を出して席に着いた。
その時だった。何かが彼の頭の中でフラッシュバックした。それが何かはわからない。
蒼はそのまま意識を失った…はずだった。
気が付くと、ホテルの一室だった。蒼が目覚めたとき、あの女が視界に入った。
「ここは…。」
「素晴らしいじゃない昨日のコンサート。」
「コンサート?あの時俺はぶっ倒れて…。」
「いいえ。」
彼女はおもむろにレコーダーを取り出すと、スイッチを入れた。
ショパン。
曲は夜想曲(ノクターン)。
「演奏は繊細かつ優美。そして、何より魂がこもっているわ。」
感激しているのか、体を震わせ一拍置くと、
「これを全て貴方が弾いた。確かに演奏前に少しよろけたようだったけど、意識は失ってなかったようだわ。」
そんな馬鹿な。
蒼は言葉を失っていた。
俺はピアノを弾けないはずなんだぞ。
事実、彼はこれまでピアノを弾こうとすると必ず指に痙攣が起きていた。それが引退の原因でもあったのだ。
指の痙攣は十年前のあの日から。
ウィーンに行って、
「本題なんだけど。」
急に視界に彼女の顔が現れた。
「私が聴きたかったのはショパンじゃないのよ。」
そして、これが彼女の癖なのだろう。一拍置くと、
「『妖精の歌』を弾いていただけないかしら。」