話はホテルに戻る。
「そんな曲は知らない。作曲者は?」
「さぁ、元が民謡だから。誰が作ったまでは知らないわ。」
「民謡?」
蒼にはわけがわからなかった。てっきり誰か有名な音楽家の非公開作品だと思っていたからだ。
「やはり、知らないのね。じゃあ私と一緒に来て?」
「…?」
蒼は訳がわからないというような顔をした。
「あら、忘れたの?私と一緒にウィーンへ行くと。お店で言ったじゃない。」
「ちょっと待て。俺はそんなことは一言も…。」
と、ここで蒼は自分の異変に気付いた。
(まさか…それも俺が失神している間に…?)
「どうしたの?」
女が心配そうな顔でこちらを覗きこんできた。
「いや…そう言えば、あんたの名前は?」
蒼は思わず話を逸らした。
「確かに名乗っていなかったわね。黄月…と言えばわかるかしら。」
黄月 雪乃。蒼は聞かずとも理解した。音楽を志す者なら一度は聞く名前だ。
「何で…あんたみたいなのが俺を…。」
蒼もこれには驚いていた。現役の国際的ピアニストならともかく、自分みたいな引退者に目をつけるなんて。
「貴方の才能はここで埋もれさせて置くにはもったいないわ。…と言いたい所だけど。」
雪乃はそこで一拍置くと、
「貴方が十年前、体験したことに関係しているわ。」
十年前
ウィーン
蒼がピアノを失った場所。
「そこで、『妖精の歌』を見つけたら…。」
蒼は一瞬ためらった。本当に彼女は自分の味方なのか。彼女が何を企んでいるのかは分からない。だが、
「俺はピアノが、弾きたい。それだけだ。」
雪乃は内心驚いていた。蒼の言葉にではない。彼の目にである。その目には、複雑な感情が入り交じりながらも、一つの
蒼い炎が揺らめいていた。
「…気持ちは決まったようね。」
そう言うと彼女は、一枚の紙を蒼に手渡した。
ウィーン行きのチケットである。
「まもなく、盛大なコンサートが始まるわ。このウィーンで。」
彼女は、一拍置くと蒼に微笑みかけた。
「貴方をモーツァルトにしてあげる。」