武田信玄は現実主義者であり、その思考に妄想僻は存在しない。
それ故に彼は優れた戦略家でありえた訳であり、仏道に深く傾倒する上杉政虎とは一線を画するところであった。
その信玄がシャンバラの存在を信じ始めた今、荒唐無稽な話でも信憑性を帯びてくる。
少なくとも信房は、そう感じていた。
「刀一つとっても、あれほどの業物をつくれるのだ。かの地にはどれほどの武器が存在するのか。
それに比べれば、上杉との同盟など取るに足らぬ」
「ですが、十年かけて何も得られなかったものが、そう簡単に手掛かりを掴めるでしょうか?」
「段蔵に三郎の跡をつけさてある。あやつなら、何かしらを嗅ぎ付けてくるであろう」
「…鳶加藤をお使いになられたのですかっ?」
段蔵の名を耳にすると、信房は不快感をあらわにした。
加藤段蔵は武田家に仕える忍者であり、通称を鳶加藤で知られる男である。
その忍術は天才的であり、特に幻術と跳躍力に優れ、その能力は他の追随を許さなかったという。
だが、忍者として優れているが故にその存在は危険であると、信房は認識していた。
「お館様、以前にも申し上げましたが、鳶加藤は余り重用せぬほうが宜しいかと存じます。
有能な者なら多用して問題はありませぬが、有能過ぎる者を用いれば、思いもよらぬ害に見舞われることがあります。
かの者は後者であり、その周囲には常に危険な気を漂わせております」
その諌言に、信玄は口元を緩めていた。
斯く言う信房自身が非凡な才能の持ち主なのだから、可笑しく感じるのも無理はない。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、か。
留意すべき格言ではあるが、この件に関しては段蔵以外に適任者がいなかったのだ。仕方なかろう」