『よこせ』
ネカイア公爵と言う名のそれは幽鬼・悪霊その物であった。
三世代に渡って太子党達に抑圧され虐げられ続けて来た同公国三八00万星民の恨みつらみが一挙に一人の身に集中して具現化された―それ程の凄まじい姿と化していた
『よこせ』
公爵は執務卓をゆっくりと回り込みながら、わななく片手をこちらへ―ジュラルミンケースにではなく、ソファーから思わず立ち尽くしてしまったまんまの総領事へ向けて伸ばして来た。
余りの事態に頭髪どころか全身の毛を逆立てさして、リク=ウル=カルンダハラはその場を逃れようと試みた。
『よこせ、さあよこせ!何故よこさぬ!!さっさとよこせ、よこせーっ!!』
十メートル四方の長官執務室を舞台に、老人と少年二人は壮絶な鬼ごっこを展開し―五分弱も経つと先に体力の限界がきた老名誉元帥は赤絨毯にへなへなと座り込み、
『総領事―後生だから』
さめざめと嗚咽を始め、そのより不気味な様は少年を一層震え上がらせた。
騒ぎを聞き付けたのか純木製扉が開かれ、衛士達と従卒がやって来るのを目にしてリクはようやく事態の本質に気付いた。
『ああ、そうだ元帥閣下、私を追い回しても意味が有りませんよ!全てはそのケースに有るのですから』
ソファーの後ろに膝をついて隠れながら、若き総領事はマホガニーテーブルの方に指先だけを示した。
『その代わりフーバー=エンジェルミの件、良しなに頼みますよ?』
後ろに纏めていた筈の銀髪まではだけさしてしまった公爵は、ようやく泣くのを止めて今度は勢い良くずかずかとテーブルに歩み寄り、
『ああ分かっているとも!太子党何てクソガキ共には前々からへどが出る思いだったんだ!あんな奴らは地獄にでも何処へでも落ちやがれ!フーバーエンジェンミなど****だ!!』
老君子としての評判も体裁もかなぐり捨てたまくし立て振りに、居合わせた第三者達を不安がらせながら、公爵はケースの窪みに指を突っ込んだ。
認証自体は呆気ない程すぐに済んだ。
すると今度は全てのエネルギーを使い果たしたのか悄然と執務卓へと戻り―肘掛け椅子に音も無く全体重を預けながら力無く公爵は、
『総領事殿―今見た姿は』
『忘れます』
やや固まったままの表情と声で、リクは間髪入れずに答えた。
ここにネカイア公爵は太子党の支配を振り払うべく大きく梶を切ったのである。