「名前を教えていなかったね。私は伊島尚道(いしまなおみち)だ。君は?」
「坂野春(さかのはる)です。」
伊島さんの問いに静かに答えた。
「一応荷物とかは少しずつ運んでくればいいから。ただ、家の方は大丈夫なのかい?」
「今は、あの家に戻る気はありません。あの家で生活するのは、まだ…」
今、あの家で生活はできない。
もしそうすれば、僕は生きることをやめてしまう気がするからだ。
「そうだね。」
伊島さんはただ、一言だけ言って、お互い話すことなく歩いていた。
「着いたよ。」
見ると、どちらかといえば新しめのアパートがそこにあった。
表札が立ってある。
ワンダ。
どうやらこれがこのアパートの名前のようだ。
「本当に、ここで住んでいいんですか?」
「あぁ。1DKの風呂トイレ付きで、家賃は1万と少しだ」
伊島さんがさらりと言った。
安すぎる。
外見上全く汚いわけでもないのに、いくらなんでも安すぎる。
トントンッガチャッ。
アパートに入って右前の部屋の扉が開いた。
なんで部屋の中からノックしたんだろう?
僕はそう思いながら、中から出てきた男の人を見た。
「あれ?伊島さん。今日は早かったんですね。」
「少し早く終わってね。」
男がこちらを見て言う。
「君、新入り君?名前は?」
「坂野春です。よろしくお願いします。」
「春か。俺は葉山真悟(はやましんご)。ワンダのみんなにはノックって呼ばれてる。」
ノックさんが笑いながら挨拶をした。
さっきみたいに部屋の中にいてもノックするからノックさんになったんだろうか?
まあいい。
今はあまり話をする気分じゃない。
早く終えて、家に最低限の荷物を取りに行きたいのに。
突然、ノックさんが思い出したように話し出した。
「そういえば、春はどんなことができんの?」
少し質問の意味がわからなかったが、一応答えることにした。
「僕、ただの学生なんで、特にできることはないです。」
それを聞いたノックさんは頭の上に?マークが見えるほどの顔をした。