欠伸は、酸素が足りなくなったときに出るそうで。
だから決して、先生の授業がつまらない訳でも、昨日徹夜でゲームに没頭していたからでもないんですよ。
もちろん、つまらない授業に対する当て付けで、わざとしたわけでもありませんよ。
授業中、豪快な欠伸をなんのためらいもなく放った私を見つけた先生は、授業が終わったあとに、「お前、やる気あるのか」と私に問い掛けたので、そう答えました。
よくもまあ、やる気の塊のような私にそんな言葉を吐けるなあ。
とは言いませんでした。
私の体の主成分は、残念なことにやる気ではないからです。
そのあと、先生はため息をひとつついて、少し笑って「次は、欠伸なんてするんじゃないぞ」と言いました。
ため息をすると、ひとつ幸せが逃げる、とよく聞きますが。
先生の吐いたため息が、私には灰色に見えました。
決して幸せを吐いてるようには思えませんでした。
ため息をすると幸せが逃げる、というのは本当なのでしょうか。
辛いことがあっても、ため息も弱音も吐かずにため込むと、幸せになれるのでしょうか。
きっとため息も弱音も吐かなかった人は、精神的に強くなれるでしょう。
でも、それらをため込むのは、体に悪いような気がしますね。
そいでもって、体に悪いことは、幸せに繋がりにくいような気がしますね。
もちろん、それらを吐いてばかりだと、自分の周りの空気の主成分が、ため息と弱音になってしまいます。
そんな中呼吸したら、再びたくさんのため息や弱音を吸い込んでしまいます。
そしてそれをまた吐き出すのですから、悪魔もにっこりの悪循環です。
だから、心の主成分が辛いことや不安だというときは、少しだけため息や弱音を吐いてしまうのは、悪いことではないのかな、と思いました。
そして私は、欠伸をしたということより、その欠伸を隠そうとしなかったことに特に反省して、「すみませんでした」と謝りました。
欠伸は自然現象ですが、確かにそれを隠さず堂々とすることは、先生に対して失礼なことでした。
たとえ、本当につまらない授業だったとしても。
休み時間に、心の中で反省して、友達とたわいもない話をして、たくさん酸素を吸って、次の強敵英語にそなえました。
結局、欠伸は出てしまいましたが、手を添えるのは、忘れませんでした。