恋愛とは練習だろう。愛があったか、無かったのかは別にして、練習で愛が成立してしまった若人は恋愛に夢中である。恋愛多感な時期に愛を多用する余り、練習に身が入らない。それは愛を履き違えている。愛の次が地獄だ。練習をサボると予習をサボったと見なされる。
頭のよい子に交じり、大人びてみる。しかし、それは恋愛ではなく、予習だ。恋愛と予習の関係は、人間と隔絶でない。人間は愛があり、勇気がある。隔絶とは、絶縁に近い宗教の範囲だ。男女間で、違った場面で、勇気を試すのだ。それが何を意味するか。大衆を動かし、動員し、自分の為に働かせる為だ。
大衆演劇の多くは隔絶だ。親子の隔絶、勇気の隔絶、それが面白いのだ。違った場面で勇気を見る。しかし、そこには愛と無縁の離婚が待ち受けていた。勇気の出し所を間違うと、単なるインポで終わり、一生を台無しにする。大概、大凡の予想通りインポがもてはやされる。その中で大衆の役に立つものといえばインポでない。