「しかし、パイとはね…
ところで牧野さん、ほかに雅則様から何か頼まれている事はありませんか?」
鹿島が聞くと、牧野は白衣の胸ポケットから紙を取りだし、
「はい。
このデザートをお出しする時に読み上げて欲しいと、伝言をお預かりしております。
では、書かれてある通りに読み上げます。
『このパイがレモンパイだという事には、なんの含みもないよ。
単に私の好物というだけだ』
以上です。
私には、何の事やら、さっぱり分かりませんが…」
そう言って、その紙を鹿島に渡した。
そこには雅則の自筆で、牧野が読み上げた通りの事が書かれてあるだけだった。
「雅則様から承っている事は、これで全部でございます」
そう言うと、牧野はペコリと頭を下げて、厨房に消えていった。
「とにかく、これは重要な手掛かりだと思われます。
只今メモと筆記用具をお持ちしますので…」
鹿島はそう言って食堂を出ると、しばらくして人数分のメモと筆記用具を持ってきた。
明彦、喜久雄、深雪が、パイの上の文字を書き写す。
友子までが一緒になって書き写しているのが、おかしかった。
喜久雄が書けば用が足りるという事にも気付いていないらしい。
それほど彼らはこのパイに驚かされていた。
そして、それを書き写しながら、この文字列の意味するところを考えているようだった。
孝子だけは全くメモする様子もなく、二つ目のアイスクリームの天ぷらを黙々と食べている。
そして、全員がメモし終わった頃を見計らって、孝子が言った。
「ねぇ、もう用が済んだのなら、さっそくそのパイも切って食べましょうよ」
牧野が再び呼ばれてパイを切り分けると、皆の前に置いた。
牧野夫人が紅茶を運んでくる。
紅茶がストレートなのは、レモンティーだとレモンパイの香りと相殺になってしまうからだ。
「さすがに雅則兄さんよね。
今どきレモンパイなんて、逆にレトロでお洒落だわ」
孝子が牧野に言うと、「おっしゃる通りです」
牧野が孝子に笑いかけながら答える。
どうやらこの二人は、食べ物に対する感覚が近いらしい。
鹿島がビデオの準備に取りかかった。
暗い無機質なテレビ画面がパッと明るくなり、いつものように雅則の笑顔が映し出された。