【桜花〜Act.4 小栗和人】

? 2011-03-21投稿
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コンコン。
「桐谷先生,ご無沙汰しております。」
僕のノックの音に振り向きながら,ロマンスグレーの夏目漱石みたいな初老の医者は静かに言った。
「おぉ,小栗か。…色々大変だったな。」
桐谷レディースクリニックは有佐の元勤務先。院長の桐谷正好先生は有佐の元上司だ。
「いや,僕は…"外木さん"こちらに…?」
「あー…外木さんは定期検診を受けに2,3カ月に1回来てるよ。随分初期の乳癌だったし,外木さんも"できることなら忘れて普通の生活がしたい"って,小栗んとこでうち宛てに紹介状をもらって来てね。」
有佐の母親−外木清里は,僕の勤めるキャンサーセンターで乳癌の手術を受けた。
有佐からの相談で,僕が同僚の乳腺外科の医者に有佐の母親を紹介したのだ。
「…そうですか。余計な気苦労を掛けて申し訳なくて…。」
「それは外木さんより,有佐ちゃんに詫びるべきだぞ。」
「そうですね…。身勝手な事しておいて,有佐の体調も心配です。昔っから危なっかしいので」
正直言うと,有佐の母親の経過より,有佐の近況を聞けるんじゃないかと思って立ち寄ったというのが本音だ。
「こないだ佑司さんに会いました…有佐に会えないか相談したら,"有佐のためを思うなら今はそっとしておいて"って言われちゃいました。"和ちゃんの優しさは残酷過ぎる"って」
「あいつは女心の分かる"男"だからな。」
フフっと桐谷院長は穏やかに笑った。
「それで小栗,お前の用は何だ?」
「あ,今日当直明けで,,外木さんの経過も気になっていたので…久々に顔を出してみました!」
不意に痛いところを突かれ,思わず苦し紛れの言い訳をしてしまった。
外はもう真っ暗だった。
「まだ17時前だというのに…。明日は大晦日か…」
ホゥと吐いた息が白く昇る。
学園通りをトボトボ歩き出すと,木枯らしが鼻を擽った。
ふと有佐の顔が過ぎった。
−いつも,寒い時は鼻真っ赤にして「寒い寒い」って言いながら笑ってたっけ−
何とも言えない切ない感情が僕の中で波紋のように広がる。
その時,聞きなじみのある着信音が響いた。何故かいつもなら心弾む着信音に,この時に限っては,罪悪感のような複雑な感覚を抱いた。
パチ。
"着信 大久保未来"
パチ。
僕は携帯電話を閉じてポケットに押し込んだ。ポケットの中で着信音が籠もって聞こえたが,やがて途絶えた。
何故か今は,木枯らしに揺れた桜並木を静かに歩きたかった。



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