不意に背後から言葉をぶつけられ、驚いて振り返る綾乃。
そこには音もなく近づいていた、哲哉の姿があった。
「結城君……」
「前に振った男が急に注目されだして、今になって惜しくなったのか?」
そう思われても仕方ないと考える綾乃には、哲哉の辛辣な言葉を受け入れるしかなかった。
だが、反論しない綾乃の姿勢が、かえって哲哉を苛立たせることになる。
「八雲が必要とした時には冷たくあしらっておいて、今になって言い寄ってくるとは、随分と自分勝手な話だな」
なおも黙して語らない綾乃に、哲哉の苛立ちも頂点に達する。
「黙ってないで何かいったらどうだっ!」
フィールドの外では穏やかな心を持ち続けてきた男が、敵意を剥き出しにして語気を強めた。
だがそれも、綾乃の目からこぼれ落ちた紅涙に、すぐに戸惑いの表情へとかわっていく。
「……あの時の私は、自分の気持ちに正直でさえいればよかったのかな?
余計な事は考えずにただ真壁君を抱きしめていれば、今の私はあの頃のように笑っていれたのかな……」
堪えきれずにその思いを口にした綾乃。
その姿に動揺を隠せない哲哉が問い返す。
「なら、何であんなことを?」
「あの時の真壁君は、小次郎君を失ったことで心が野球から離れはじめていた。
私が優しくすることでそれが加速する気がして、それじゃいけないと思ったの。
だってそうでしょ、小次郎君は真壁君に野球をさせてあげたくて、全てを犠牲にしたんだよ。
それに私だって、真壁君には野球をやっていてほしかったから……」
あの時の綾乃の言動は八雲を思っての事であり、それにより彼女自身も苦悩しつづけていた。
その事実を知った哲哉は、綾乃を責めた己の浅はかさを素直に恥じた。
「……済まない」
女性にたいして未熟な哲哉には、それが精一杯の言葉だった。
そんな哲哉に接する綾乃は、努めて笑顔を繕えた。
「結城君が謝ることないよ、悪いのは今更会いにきた私なんだから」
なおも止まらぬ涙に、綾乃の中に秘められた想いの強さを哲哉は知った。
「藤咲、今でも八雲の事が……」