凄まじい闘気をまといしノアが、信玄に引導をわたすべくゆっくりと歩みはじめた。
その姿に、屈強で知られた武田の精鋭達が浮き足だっていた。
戦士として優れているからこそ、ノアの戦闘力が自分達とは次元が違う事を、本能が理解していたのだ。
振り下ろした軍配をそのままに半次郎を凝視する信玄は、視界にノアの姿をとらえておきながら、何の指示もださずにいた。
「お館さま、撤退のご指示を。
あれは化け物です。
まともにやり合えば、悪戯に兵を損なうことになりますぞ」
ただ一人冷静な判断力をたもっていた軍師、馬場信房が開口した。
先の第四次川中島開戦にて多くの将兵を失った事を憂いていた信房にとって、ここで兵を死なせる愚行は絶対に避けねばならなかった。
信房の発言で我にかえった信玄は、ノアを一瞥して無表情に呟いた。
「……是非もないな」
撤退の指揮を信房に一任した信玄は、今一度だけ半次郎に視線をむけ、その場を後にした。
その後ろ姿に、信房は我が目をうたがう。
戦国の世にきら星の如くその存在を輝かせる男が、覇気を失い見る影もなく肩を落としているのである。
「……やはり信玄公も人の親であったか」
奥歯を噛みしめる信房は、十年前の判断は人生最大の誤りであったと自責していた。
あの時に半次郎を落ち延びさせるのでなく、身を呈してでも信玄の翻意をうながしていれば、この悲劇はさけられたはずであると。
慚愧の念にたえない信房であったが、今はノアである。
あの鬼神が如き女を相手に、どれだけの兵を無事に海津城へかえせるのか。
兵達に撤退の指示をだす信房は、自身で殿をつとめることを決意していた。