「陽子、口紅新しいの買ったの?よく似合ってるよ。」
俊樹には、美的センスがあった。
「美和子がくれたのよ。この間、私が奢ったお礼にって。また、似顔絵描いてね。その時には、この口紅つけるね。」
俊樹との、日常の中に居ると、弘に口紅を買ってもらったことなど、なかったことのように思えてくる。やはり、この安堵が結婚生活というものなのか…。陽子は、思った。
ときめきじゃあないんだ。結婚してる安心感のことを女子大時代に学んだが、このような感覚なんだ、きっと。
大丈夫。何も問題なんか無い。皆、結婚前と後の生活は変わる筈。
きっと、いつものように、自分の欲張り病が出てきただけだ。
弘のことは、過去のこと。何を勘違いしていたんだろう。
ちょっとアバンチュールを楽しみたかっただけ。
「おはよう、あなた。朝は、パンにする?ご飯にする?」
いつものように、朝は、明けた。そして、会社に出る夫を見送る。
そうだ。子供の時分、女優に憧れて劇団に入るかどうか、悩んでいた時があった。あの頃みたいに、現実から逃避してみたかっただけなんだわ。
そんなことに想いを巡らせていると、美和子から電話があった。
美和子には、今の心境を話し、口紅のアリバイに協力してもらうことになった。
「へぇ、そんなのよくあることなんじゃない?皆いちいち言ったりしないけどね。」
美和子は、軽く受け流してくれた。
罪悪感を少しでも感じていた自分が、恥ずかしいような気がする陽子だった。
[続く]