走り出したら止まらない。
こんなにも青い海が今、僕の目の前にあって、どこまでも永遠に広がっているようにさえ見える。もし、僕が水の上を歩けたなら止まらずにずっとずっと走っていけるだろう。 でも僕が進んでいった先には、海というそこの見えない水溜りがあって、前に進もうとする僕の体を覆い、動きを止める。そのうち僕は頭だけが海に浮いているような状態になった。後ろを振り返ると、一緒に遊びに来た仲間は一生懸命に浮き輪をふくらましている。
そのうちの一人が僕に手を振った。と同時に隣にいた僕の彼女が両手を口の前で囲むように添え、メガホンのようにして、叫んだ。
「気持ちいい〜?」
「最高。」僕は相手に聞こえないだろう、小さい声でそう言った。
「ちょっと〜、無視かよぉ〜。」
やっぱり聞こえてなかったみたい。僕はその言葉には答えず、果てしなく広がる海のほうへ振り返り、さらに深い海の先へ向かうように泳ぎだした。
ゴーグルをつけて、海の中を見渡すと、コケのついた岩の間を縫うように青色や緑色をした小魚がいっぱい泳いでいた。僕はそれを触ろうとしたが、小魚たちは僕の手を軽く交わし、あっという間に見えないところまで泳いでいってしまった。諦めて、水から顔をだした瞬間にビーチボールが勢いよく僕の顔にむかって飛んできて、おでこにぶつかった。
おでこにぶつかったボールは大きく空にむかって跳ね上がり、一瞬、太陽と重なり、光を遮った。
「無視するからよ。」そう言って、無邪気に笑う彼女の笑顔は世界一だと僕は思う。
付き合ってからもう三ヶ月が経った。数字的にいうならまだ三ヶ月かもしれないが、僕ら二人にとってはとっても長いものだった。まるで生まれてから今までずっと彼女と一緒にいるような気さえしてくる。
僕は浮き輪の真ん中に体を突っ込んで浮かんでいる彼女に捕まった。
「やめてよ、沈んじゃうでしょ。」
「いやだ、沈めてやる。」僕は海に潜って下へ浮き輪を引っ張った。
「真治、助けて〜。」
「いやだ、いやだ、お二人さんお熱いこと。」
真治は笑いながらこっちを見ている。真治の近くにいた千夏が助けにこようとしたが、もう遅かった。僕の彼女は浮き輪ごと僕のほうへ前のめりに一回転した。僕が水面へ顔を出すと、彼女は必死に僕にしがみついた。
「私、泳げないのしってるでしょ。」
どうやら本気で怒っているみたい。僕にしがみつきながら、首を絞めてきた。僕はごめんごめん、と彼女に何度も謝った。少しずつ彼女の腕から力が抜けていき、僕の首元にキスをした。
「おーい、お二人さん邪魔して申し訳ないんだけど、浮き輪が流されてるぞ。」
「千夏に捕まってて。」僕が彼女にそう言うと、千夏が近づいてきた。
「うちの子よろしくね。」と僕。
「まかせといて、」と千夏。
僕は遠くに流され浮かんでいる浮き輪にむかって泳ぎ始めた。が僕がどんなに泳いでも塩の流れのほうが速いのか浮き輪には追いつけなかった。もうかなり沖のほうまできてしまっている。このままじゃ自分が帰れなくなるかもしれないので、僕は素直に諦めた。
帰りは塩の流れと反対方向に泳ぐので、死ぬほど疲れた。僕が無事、岸にたどり着いた時にはみんなとっくに海から上がって昼ご飯を食べていた。すっかり冷え切った僕の体に彼女はタオルをかけてくれた。
「ありがとう。」
「お疲れ様、うどん食べる?」と彼女は自分の食べていたうどうを割り箸で摘み、口の前へ持ってきてくれた。
「浮き輪は?」とベンチに座ってカレーを食べながら真治が言った。
「むこうにあるよ。」と僕はうどんを啜りながら遠くの海の上を指差した。
「あれ、五百円したんだよな…。千夏、五百円あったら何ができると思う?」
「う〜ん、旅館のテレビ五時間分は観れるわ。」千夏は、真治のカレーから生姜を摘みながらそう言った。
「わかったよ。なんかおごるよ。」僕は少しぐらい労いの言葉をかけてもいいんじゃないか?と思ったが、それは口に出さなかった。
ちゃんと浮き輪にも謝って、と千夏が言ったので僕はしぶしぶ海のほうへ向き直って、遠くにポツンと浮かび、気持ちよさそうに漂っている浮き輪にむかって手を合わせた。僕の横にぴったり引っ付いている彼女が、僕の耳元でついでにお願い事でもしてみたら、と言った。