駅のホームのベンチに座り、おもいっきり空気を吸って、短いため息を一つ。白い息がはっきりと僕の瞳に写り、目の前で広がって消えていった。
僕の足元に近づいてきたハトが、必死に地面を見つめ、餌を探しながらジグザグに歩いている。僕はすばやく足を動かして驚かしてやった。僕の動きに目を丸くして驚いたハトが、一メートルくらい飛んで僕から離れ、すぐに何もなかったかのように、ホームの黄色い線の上を歩いていった。
冬の空は、灰色の雲に覆われていて肌寒く、僕はコートのポケットに両腕を突っ込んで、一番上までボタンをしてできた襟の部分で口元を隠し、寒さをしのいでいた。
七時四十五分、本当なら、いつもこの時間に東京行き急行の電車が来るはずなのだが、今日は人身事故があったため、電車がかなりの時間遅れていた。ホームの中心に行くにつれて、人が溢れていた。僕はいつもどおり一番後ろに乗るつもり。
八時五分、遅れていた電車がやっとホームに入ってきた。電車が通り抜ける風で僕は目を細くした。僕はしぶしぶ左手をポケットからだし、学校指定のカバンを手にとった。
電車に乗ると、車内は空いていて、ボックス席がまるまる空いていた。僕はボックス席の奥に座り、隣にカバンを置いた。ホームでは、駅長のくせのあるアナウンスが流れ始め、聞きなれた音楽が響いた。扉がゆっくりとしまって、もう一度開く瞬間に、勢いよくハイヒールの音をたて、電車に乗り込んできた一人の女の人がいた。
彼女はよっぽど遠くから走ってきたのか、かなり息を切らして、中腰になり、ゆっくりと息を整えていた。頭を上げると、みんなの視線が自分にあるのに気づいてか、席を探しながらその場から離れ始めた。
彼女が左、右、と左右の席へ視線を運ぶ姿は、まるで会えない恋人を探しているように切ない目をしていて、その視線に先にあるだろうものに、僕はいつの間にか嫉妬していた。
ゆっくりとヒールのコツコツ、という音が僕の耳に近づくにつれ、僕は窓の外の早送りをされたような映像に目をやるフリをして、横目でちらちら見ていた。彼女の足音が僕の横で止まったので、僕がそっちのほうに目をやると、彼女の切れ長のきれいな目と視線があった。彼女の視線の先に僕がいると思うと、さっきまでの嫉妬が嘘のように消え、今度は胸が大きく揺れ、瞳孔が開いた。
僕がうつむくと、彼女は僕の斜めの位置に腰を降ろしたようで、スっと、細い足がきれいに二つ並んでいるのが見えた。彼女は踵が五センチくらいありそうな赤いハイヒールを履いていた。
彼女が僕の目の前の席にバックを置くと、車内に飛び乗り乗車を注意するアナウンスが流れた。
「私のことね。」と彼女が独り言のようにつぶやいたので、僕がそっちに視線をやると、彼女は僕のことを見ていて、ゆっくりと僕に笑いかけた。僕の胸がさっき以上に大きく揺れ、視線を逸らしながら、僕も笑顔をつくった。
「もしかして湘南高校?」
「はい、そうです。」僕はうつむいたまま答えた。
「私も二年前まで湘南高校に通っていたのよ。懐かしいな、卒業してから一回も行ったことないのよ。あんなに毎日通っていたのに、不思議なものね。どう?何も変わってない?」
彼女は、このどこか気まずい雰囲気を隠そうとしているのか、一気に喋り始めた。
「えーっと、僕が入学してから、古いほうの体育館が新しく建て直されました。それと、プールが温水プールになりました。それくらいだと思います。」
「そうなんだ。」彼女は少し目を細めてそう言った。僕からしてみれば、まったくたいしたことではないのだが、彼女からすると、それがつらいのか、どこか重い口調だった。
「時間の流れは早いものね…、見慣れていたはずの景色もすぐに変わっていってしまうわ。人の気持ちと同じね。」
僕は何も言うことができず、ただ黙って、彼女の薬指にある指輪をみつめていた。
「ごめんなさいね、こんなこと言って。くだらないおばさんの愚痴だと思って。」と彼女は笑いながら言った。
「いえ、そんな。僕もそう思います。」
「本当に?君もそんなこと考えたりする?」
僕は冗談っぽく、彼女の目をみて答えた。
「いえ、そこではなくて、おばさんの愚痴ってところに同意しました。」
僕がそう言うと、彼女はわざと怒ったような素振りをみせ、初めて僕に心を開いてくれたような態度をとった。
「あー、ひどい。そういうこと言うのね。愚痴だけならまだしも、おばさんは許せないわ。」
「冗談です。」
「嘘よ。本当にそう思ったんだわ。」
「冗談です。」
「嘘よ、絶対うそ。」
最初は冗談に思えたが、彼女の目が少し虚ろになったので、本気で拗ねているように思えてきた。
「なんか拗ねてません?」僕がそう言うと、彼女は僕のその言葉に対抗するように、もっと意地を張った。そんな子供みたいな彼女が今度はとてもかわいらしく思えた。
「拗ねてないわよ。私はあなたの先輩よ。二つも上なんだから。」と威嚇するように顎を上に突き上げ、僕を見下ろした。
「たった二つしか違わないじゃないですか。友達にだってなれるし、あなたさえよければ恋愛だってできますよ。」
僕はそう言った自分の言葉に、とてもドキドキさせられた。会ったばかりの人にこんなことを言えるなんて、あらためて自分はこの人のことを好きになってしまったのだと思った。そう考えてしまうと、さっきと同じように目もあわせられなくなった。冗談を言った自分が信じられない。
「そうね、そう考えたら恋もできるかもしれない。あなたにその気があればね。でも私はお・ば・さ・ん、ですから。」
僕はこの時、またとんでもないことを言ってしまったと思った。もし僕がおばさん発言をしなかったら、彼女は今、なんて答えていただろう。彼女のあの薄く、でもそれでいてきれいな弧を描いている唇から、どんな言葉をきけただろうか?社交辞令か、本音か、どちらにせよ僕には、できるかもしれないわね、という彼女の言葉が頭のなかに強く残っていた。
「君は今、好きな子とかいるの?」
僕が何も答えないでいると、彼女は話題を変えてきて、そう僕に尋ねた。
「いません。けど、いるかもしれません。」と僕は曖昧な返事をした。
「じゃあ、気になってる人がいるんだ?」
「うーん、いません。」僕がそう言うと、彼女はまた怒ったように言った。
「どっちなのよもう。よくわからないわね。」
「好きな人いるんですか?」
僕は自分の話から話題を逸らした。
「私はいるわよ。今、働いてるところの上司なんだけどね。でもまだ付き合って三ヶ月くらいかな。それでも私にしたら長いほうだけど。」彼女はそう言って、また小さく笑った。
さっきのドキドキするような気持ちから今度は胸をしめつけられるような気持ちに襲われた。僕は、今日初めて電車の中で会った人に恋をした。そしてわずか十分足らずの間に失恋した。きっとこれは僕の失恋最短タイムになるに違いない。
「どうしたの?」僕が黙っていると彼女は下から覗き込むように僕をみた。
「いえ、なんでもありません。羨ましいな、と思って。」
僕がそう言うと、彼女は、つらいことも多いけどね。と言った。
三つ目の駅を通り過ぎて、都会的な雰囲気からまたひとつ、違った商店街が現れた。僕が毎日みているこの風景を彼女は、懐かしい、と言った。
「そういえば、学校以外にも変わったものとかある?通学路の途中とか。」
彼女がそう話し始めたのと同時に電車が緩くブレーキの音をたててホームに滑り込んだ。
「駅に着いちゃったわね。また今度教えてくれる?いつも今日の時間の一番後ろの車両に乗ってるから。」
彼女はいつも僕が乗っている電車の一本後に同じ車両の同じ場所に座っていた。そう思うと頭の中でこれが運命というものではないかと、思い始めた。毎日、同じ場所にいるのに、たった五分くらいのすれ違いで出会うことがなかった二人が今日、たまたま起きた事故のおかげで出合ったのだ。飛び降りた人に感謝したい気分。その人のおかげで僕は今ここでこうしていられる。
僕はそんなことを考えながら、初めて感じるこの気持ちを胸いっぱいに含みながら、軽い足取りで電車から降りた。
彼女は、席を立ってホームに降りた僕に手を振った。そして隣に置いてあった自分のバックを手に取り、その場所へ座ってほんの少し窓を開け、その手のひらぐらいの窓の隙間から口だけ覗かせた。
「じゃあね。」
そう言った彼女の髪が、開けた窓から流れ込んだ風に揺れて何本もの線になった。
学校へ向かう途中、僕は必死で何か変わったところがないかを探しながら歩いた。彼女に恋人がいると知っているけれど、また会えると思うと、どうしても忘れられなかった。なんでもいい、ちょっとしたことでいいから、より多く彼女と話す話題が欲しかった。
僕は半分くらい歩いたところで、コンビニに寄りアイスを買い、ファッション雑誌を読んでいると、コンビニのウインドウ越しに走っていく同じ高校の生徒がみえた。その子以外にも何人か走っていく生徒をみかけたので、おかしいと思い、時計に目をやるともう八時半になっていた。今日は電車が遅れていたことをすっかり忘れていた。僕は雑誌をラックに戻し、急いでコンビニをでた。走って行くと、さっきコンビニの前を走っていった子に追いついた。なんとなく抜かすことに罪悪感を感じたが、彼女をみないようにし、早めに横を通り過ぎた。
僕が学校に着いた頃にはすでに毎週月曜日、恒例の朝会が始まっていた。この寒い中、みんなコートをきたまま、外にきれいに男女に別れて並んでいる。こうしてみると、戦争をしていた時代の映像を思い出させる。もしその時代に生まれていたとしたら、遅刻した僕はいったいどういう目にあっていただろうか。きっと立てなくなるくらい、何か硬いもので殴られたに違いない。
僕は教室に行き、かばんを置き、校庭へでた。先生に頭を下げると、ただ、早く並べ、と言っただけだった。よかったこの時代に生まれて。
自分のクラスの指定の位置に並ぶと、後ろから肩を叩かれた。
「遅刻なんてめずらしいな。」と悠太が言った。
「まあね。」
僕は走って疲れていたので、前をみたまま適当に返事をした。
「顔が赤いぞ。なんかいいことあったのか?」
悠太はニヤニヤしながら肘で小突いてきた。
「そんなんじゃねえよ、走ったからだ。」
僕がそう言いながら、後ろを振り返ると、遠くの列のほうから声が聞こえた。
「雪だ。」
やがて、その声に回りが反応し、ざわざわし始めた。僕が空を見上げると、濁った灰色の雲の空から、ぱらぱらと真っ白な雪が落ちてくる。
彼女はもう電車から降りて、仕事場に着いただろうか?今、何を考えているのだろうか?僕のことを覚えていてくれるだろうか?雪が降ってきたことを今すぐ彼女に伝えたい。
僕は遠く手の届かない空を見つめ、目を閉じ、彼女のことを想った。
ゆっくりと僕のおでこの上に落ちた雪が、僕の火照った体に溶け、ひんやりとした冷たさが広がった。