一年も時が経つと、家族が崩壊したことにもそれなりの整理がついた。それは表面上の「整理」かもしれない。中学二年、家族に依存し反発するべき時期。
有馬には、自宅の扉を開いても「ただいま」と言ってくれる人さえいなかった。それを悲しいとか辛いとかって思うこともあったかもしれないが、そう思う度に嫌な憎悪を覚えた。
有馬は中学二年に進級すると同時に学校にでるようになった。中学一年の冬に千葉に引っ越し、東京に仲間も思い出もおいてきた。
通学のきっかけと言えば、春休みに中学の教師に学校に呼ばれ、長々と話し込まれ仕方なく来るハメになっただけだが。教師は不登校の自分をバカにしくさった態度を時折見せるが、あいにくバカではない。勉強にしろ、スポーツにしろ、そこらへんの一般生徒ごときに負ける気がしない。
新たな学校生活を始めて、友人が出来たりした。有馬自身、学校など「勉強するだけの、保育園の延長線」とバカにしていたが、そう悪いものじゃないと感じつつあった。1、2ヶ月程で学校生活の波に乗ると、誰もいない自宅にいるより、余程、こっちで仲間といたほうが良いと思えた。
二年一学期中間考査では、五教科で失点わずか二点という成績。近隣では「不良学校」と名高い中間だったが、毎年の進学状況などから「上は天才、下はヤクザ」とまで言われる程、上下の差が激しい。この学校のトップは県下でも五本の指に入る高校に進学できるのも、約束されたようなもんだ。
転校生として、その実力をまざまざと見せつけた。
しかし、有馬自身は成績一位に対する誇りなど一切無かった。学校では習慣として、定期テストの上位五名を紙に書いて啓示する。有馬騎人の名はひときわ大きい。
これが、校内で有馬を有名にした。
啓示後のある日、有馬の机に一枚の紙がナイフで突き立てられていた。紙は成績を啓示したもの。
しかし、別に驚く必要も無かった。不良が多いこの学校のことだから成績が悪いバカ不良がねたんでやったんだろうと、むしろ軽蔑した。静かにナイフを抜きとり、丸ごとゴミ箱へ放り込む。
すると、三人の男が有馬の前に立ちふさがった。校内でもトップを争う不良の林竜二とそのグループの2人安田啓司と千葉裕也。
主に三人でつるむ、市内の中学でも有名なグループ。その気になれば、三人以外にもいくらでも集まりそうだが。二年にして唯一、三年の不良が手を出さないグループと言える。