その時、不意に気付いた事がある。
僕には、今、目の前にいる女性に関する予備知識が何ひとつ無いのだ。
「あの〜、今更だけど君の名前教えてくれる?」
「あ、…そうね。
夢では声が届かなかったのよね、言われてみれば。
私は静(しずか)」
「名字は?」
「今生は葛城(かつらぎ)を名乗っているけど」
「今生(こんじょう)?」
「ええ。慎二さんも前世は違う名前だったわよ?」
「そうなのか…?」
怪奇現象や輪廻転生等をついぞ信じた事のない僕にとって、それは俄かに理解し難いものである。
「そもそも私たちは夫婦だったの。
まだ、鎌倉幕府のある時代よ。
当時漁師だったあなたは、ある日誤って人魚を網に掛けてしまった。
その日は他に何も捕れず、結局その人魚だけ人目を忍びながら家に持ち帰ったのよ。
ちょうど海の荒れる時期、日々の糧を得るだけで精一杯だった私達は、その人魚を、………… 食べた」
「人魚を食ったァ?」
静はコクッと無言で頷いた。
今の僕には、取り敢えず彼女の話を聞く事しか能がない。
重苦しい沈黙が続いた後、静の顔つきに少しずつ柔らかみが見えてきた。
『ふぅー‥っ』と大きくため息をついた彼女は、再び語り手に戻っていった。